111.31KV620日記


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カルメンといえば

そのうち書こうと思いながら、機会を逸していました。このブログ、ただいまカルメン祭りという様相を呈していますから、ちょうどいいでしょう。

同居人ジョルジュ(仮名、日本人)から仕入れたネタで恐縮なのですが、『失われた時を求めて』で有名な作家プルースト(フランス人)は、オペラ「カルメン」を作曲したビゼー(フランス人)の息子と、同じ学校、同じクラスで、席が隣同士だったことがあるのだとか。で、ビゼーの息子は、なかなか見目のよい少年だったらしく、プルーストは彼のことを「カルメンの息子」と呼んでいたのだそうです。

ただ、ビゼーの息子のほうでは、プルーストにあまり興味がなかったようで、少女マンガふう耽美の世界は繰り広げられなかったみたいですが。
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by noma-igarashi | 2006-07-29 19:07 | 映画・TV・本など | Trackback | Comments(0)

フィギュア「カルメン比較」--クリロワ&オフシアンニコフ組

2つ下の記事のコメント欄で、ak-Gさんが教えてくださったのですが、長野五輪のアイスダンス銀メダリスト・クリロワ&オフシアンニコフ組のフリー演技「カルメン」が、珍しくカルメンとドン・ホセを演じたもののようです。これなら書きやすいので、急遽、このプログラムについて書いてみることにしました。演技の解釈はあくまでも私の感じ方をもとにしているので、「こういう見方もあるのでは?」というようなご意見がありましたら、ぜひお聞かせくださいませ。

クリロワ&オフシアンニコフ組の「カルメン」 1998年長野五輪フリー
【曲の構成】
時間:曲名
 (時間はYouTubeの表示時間に基づいています)
0.25~:闘牛士の歌
0.50~:第4幕への間奏曲(アラゴネーズ)
1.50~:第1幕への前奏曲
2.10~:サラサーテ「カルメン幻想曲」序曲の後半(該当する曲が「カルメン」にもあります?)
                         ↓   ↓  ↓
      「カルタの歌」の中で、カルメンが歌うパートのように思われます(8/6追記)
3.20~:第2幕フィナーレの合唱
4.15~:第1幕への前奏曲

いやあ、2人で演じると、ものすごくドラマチックですね! しかも、新採点方式が導入される前のアイスダンスの演技だから、情感たっぷりで、まるで短いお芝居を見ているよう。演技の中盤、ドン・ホセがカルメンを追いかけて走るところなんか、思わずドン・ホセに感情移入して泣けてきました(解説を聞くと、ただリンクを走るだけでは、当時としても技術面の評価は低かったようですけどね)。

普通、オペラの「カルメン」を見ていて、ドン・ホセに感情移入することはまずありません。女性はたいてい、ドン・ホセをあまり好きではないのでは。オペラ「カルメン」のくわしいあらすじは、こちらとかこちらでどうぞ。ここでも簡単に説明すると…。

ドン・ホセは、情熱的な女性カルメンと出会い、たちまち夢中に。カルメンのほうも、最初のうちはドン・ホセのことが好きだったので、しばらくの間はラブラブでした。しかし、蜜月はそう長くは続きません。恋多きカルメンの心はドン・ホセを離れ、やがて花形闘牛士エスカミーリョに向けられます。思い直してくれとカルメンに迫るドン・ホセ。拒むカルメン。嫉妬に狂ったドン・ホセは、とうとうカルメンを刺し殺してしまうのでした。(幕)

この流れに沿って、クリロワ&オフシアンニコフ組の演技を解釈してみます。もちろん、オペラの筋書き通りの構成になっているとは思わないですけど、オペラの内容を下敷きにしているのは確かだと思います。

最初の「闘牛士の歌」は、エスカミーリョが盛大に歌う歌ですが、エスカミーリョの歌だということは、この演技ではあまり関係なさそうです。有名な歌なので、「さあ、これからカルメンの世界を繰り広げますよ」という合図のようなものでは。印象的で景気のいい曲でもありますから、ドラマチックな演技の始まりにはふさわしいです。

この曲に合わせての演技は、ドン・ホセとカルメンの出会いが表現されているように思います。2人が離れた位置で演技を開始しますから、めぐり逢って恋に落ちるシーン、という感じでしょうか。やがて曲がアラゴネーズに移ると、愛し合うようになってからの2人の心情が表現されているように感じました。アラゴネーズはせつない印象の曲だし、演技も幸せいっぱいというよりは、愛するがゆえのせつなさが強調されているように思います。カルメンとドン・ホセとでは、性格などが全然違いますから、気持ちのすれ違いだとか、愛しているからこその不安だとか(特にドン・ホセの側には)が多々あったと想像されます。

この曲に合わせた演技では、ドン・ホセがカルメンを追って走るシーンも出てきますが、これも、たとえばカルメンが心変わりしたので追いかけているというわけではなく、愛し合っている状態でのドン・ホセの不安感を表現したものだと思いました。カルメンの心変わりは、このすぐあと、別の曲に切り替わったときでしょう。

次の曲(第1幕への前奏曲)は、曲を聴いているだけで、なんだか不吉な出来事を予感させるようなところがありますね。演技を見ても、2人が争っているような動きをしています。やはり、ここで2人の間に何らかの変化(オペラの筋書きに沿って考えれば、カルメンの心変わり)が起きた、ということを表しているのではないでしょうか。

続いて、がらりと曲調が変わり、今度は物悲しい印象の曲が始まります(これ、曲名を勘違いしていたので訂正しました)。オペラ「カルメン」では、カルメンがひとたび心変わりすると、2人の関係が元に戻ることはもう絶対になさそうな展開になりますが、このプログラムではそこまでいかず、2人の間で繰り広げられる葛藤が描かれているように思います。実際、オペラ「カルメン」にしても、解釈の仕方によっては、カルメンは最後までドン・ホセに未練があった、という見方も可能だろうと思うし(映画「永遠のマリア・カラス」の中に組み込まれた「カルメン」は、どうやらこの解釈のようでした)。この曲の途中で、カルメンがドン・ホセを挑発し、ドン・ホセがカルメンをナイフで刺すようなポーズも見せますね。終盤に向けて、2人の関係がだんだん切羽詰っていくのが感じられます。

3分20秒ごろ(←YouTubeに表示されている時間)に、曲がアップテンポのものに変わりますが、演技内容としては、前の曲からの続きという感じでしょうか。途中、カルメンがドン・ホセの頬を何度もぶつようなポーズもあり、この部分はちょっとコミカルです。

そして終盤。曲が再び、中盤でも使われた前奏曲に切り替わります。この曲、「宿命」というのだそうで、確かにそんな感じがしますね。曲が切り替わってすぐに、ドン・ホセがカルメンを蹴るようなポーズを見せます。この部分が、ドン・ホセがカルメンを刺し殺すシーンに該当するのではないでしょうか。蹴られた直後に、女性が悲鳴をあげるような、苦痛に耐えるような表情をしますから、たぶんそうじゃないかな、と。

ただ、どうして刺さずに蹴っちゃうの、と疑問にも不満にも思いますが。あくまでも演技上の見栄えという観点からいうと、刺す(相手と密着する)のと蹴る(相手を遠ざける)のとでは印象が大違い。小説でもオペラでも、ドン・ホセはカルメンを刺し殺したことになっているわけだから、刺す演技のほうが断然よかったのでは。

それとも、曲が変わる直前に、2人が抱き合う(というかカルメンがドン・ホセにしがみついている)ようなリフトがありますが、もしかして、ここで刺されているのかしら? かもしれないですけど、う~ん、だとしたら、ドン・ホセの演技として、刺した直後にカルメンを蹴るかなあ…。特に、オペラのドン・ホセを念頭に置いて見ると、ここでカルメンを蹴るというのはずいぶん違和感があります。

というわけで、この部分の演出には不満なんですが、エンディングは素敵です。男性の胸元から赤いスカーフを抜き取るというのは、反則すれすれでも、やはりすごく印象的。これは、ドン・ホセの心臓(こころ)でもあり、カルメンの血でもあると解釈しました。死んでゆくカルメンは、ドン・ホセの心を持って行っちゃったわけです。愛するカルメンを失ったドン・ホセは、死んだも同然ですから。というわけで、あの赤いスカーフは、カルメンがドン・ホセの胸元から抜き出すところまでは、ドン・ホセの心の象徴であり、カルメンの手にわたってからは、彼女が流す血に見立てられているのではないかと思いました。

それにしても、こうしてカルメンとドン・ホセしか出てこない「カルメン」を見ると、「カルメン」の主役はやはりこの2人であって、エスカミーリョもミカエラも、所詮はオペラのためにあとで付け足された役柄だというのがよくわかりますね。オペラ「カルメン」のドン・ホセは、ちょっと好感を持ちにくい男性なんですが(最後はまるでストーカーのよう)、それも歌手の演技次第なのかもしれません。オペラでも、ドラマチックで感情移入できるようなカルメンとドン・ホセをぜひ見てみたいものです。
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by noma-igarashi | 2006-07-28 20:17 | フィギュアスケート | Trackback | Comments(4)

フィギュア「カルメン」比較--村主章枝選手

フィギュアスケート「カルメン」比較、第2弾は村主章枝選手です。プリンス・アイス・ワールドのときの動画が見つかりました。青字の「カルメン」をクリックすると、動画をご覧いただけます。

村主章枝選手の「カルメン」 2006年プリンス・アイス・ワールド
【曲の構成】
時間:曲名

0.00~:カルメンがいないぞ(カルメンが初めて登場するときの歌のイントロ)
0.25~:セギディーリャ(リリャス・パスティア亭へ一緒に行こうとカルメンがホセを誘う歌)
1.45~:ジプシーの歌(第2幕、リリャス・パスティア亭でカルメンが歌い、踊る曲)

わかりやすい構成で助かりました。ビット選手のプログラムとは、1曲もダブっていませんね。どれも有名かつ印象的な曲ばかりなので、これなら「ああ~、これってどの部分だっけ!?」と悩む心配がありません。すっごい個人的な趣味なんですが、せっかくボーカル入りの曲が使われているので、「セギディーリャ」の歌詞を一部、ご紹介してみます。出だしの部分です。
(歌詞はフランス語。訳詩:安藤元雄)

Prés des remparts de Séville,
Chez mon ami Lillas Pastia,
J’arai danser la seguedille
Et boire du Manzanilla!…

セビリアの城壁の近く、
なじみのリリャス・パスティアの店へ、
セギディリャを踊りに行くの
マンサニアを飲みに行くの!

Oui,mais toute seule on s’ennuie,
Et les vrais plaisirs sont à deux…
Donc pour me tenir compagnie,
J’emmènerai mon amoureux…

でもね、たった一人じゃつまらない、
二人でなくっちゃ楽しくないわ。
だから一緒に連れて行くの。
あたしの大事な恋人を。(←ここでお客さんに扇を差し出し、バラをプレゼント)

ちなみに、「ジプシーの歌」のほうは、祭りの日にジプシー女が歌い踊っている、というような情景描写で、特に意味のある歌詞ではないため、パスします。

---------------------
さて、村主選手の「カルメン」についてです。先に見たビット選手と違って、村主選手の外見とか雰囲気は、カルメンらしいとは思いません。ただ(こんな書き方をすると、ちっともフォローになっていない気もしますが)、オペラで「カルメン」を見るときは、どんな外見のカルメンでも甘受しなければいけないことが多々ありまして、それと比べたら、若くてほっそりしてスタイルのいい村主選手は、もうそれだけで十分、合格点です(いや、でも、オペラのカルメンたち、歌はうまいんですよ)。

すみません、なんだか褒めたのかどうかビミョーな感じの書き方になってしまいましたが(汗)、このプログラムは好きだし、村主選手の演じるカルメン、とても魅力的だと思います。素顔はあまりカルメンらしくない彼女が、それらしくなりきってしまうところがいちばんの魅力では。プログラムのつくり方とか演技のうまさは、さすがですね。小道具の使い方も素敵です。

それと、これはエキシビション用のプログラムだからできたことかもしれませんが、悲劇的な要素をいっさい持ち込まず、あくまでも情熱的な明るいプログラムに仕上げたのがよかったのでは。競技用のプログラムだと、表現に緩急をつける必要がありそうだから、曲もスローな部分を取り混ぜたりして、とことん情熱的なだけのプログラムにするのは難しいように思います。でも、この「カルメン」は静的なものを排除することで、カルメンの魅力である生き生きとした部分だとか、「カルメン」という演目自体のわくわくするような部分(そりゃもう、前奏曲が始まったとたんに血が騒ぎます)を十分に表現できていると思いました。村主選手って、しっとりした演技もいいですけど、明るさ全開!みたいなプログラムもあんがい向いている…というか、個人的にはそっちのほうが好きだったりします。
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by noma-igarashi | 2006-07-25 22:38 | フィギュアスケート | Trackback | Comments(0)

フィギュア「カルメン」比較--カタリナ・ビット

フィギュアスケートで「カルメン」は人気のプログラムですが、ここでは女子シングルに絞って、歴代の「カルメン」プログラムを取り上げてみたいと思います。女子シングルに限定するのは、ペアやアイスダンスの場合、(前にも書きましたけど)男性がエスカミーリョの格好をしながらドン・ホセを演じているらしい点が、個人的にどうもなじめないこと、男子シングルの場合も、エスカミーリョのつもりなのかドン・ホセのつもりなのか、あるいはどちらでもないのかわかりづらく、評価の基準を見つけにくいことが理由です。その点、女子シングルの場合は、皆さんカルメンになったつもりで演技しているものと思われ、この演技はカルメンらしいとか、カルメンらしくないとか、あれこれ書きやすいです。

さて、女子シングルで「カルメン」といえば、やはりカタリナ・ビット様(旧東ドイツ)を忘れてはならないでしょう。カルガリー五輪のフリーで「カルメン」を演じ、見事に金メダル。その後、アメリカにわたってプロスケーターになってからは、「カルメン・オン・アイス」という映画でもカルメンを演じています。「トゥーランドット」が荒川静香なら、「カルメン」はカタリナ・ビットといっていいのでは。

というわけで、最初はカタリナ・ビットの「カルメン」を取り上げてみます。
青字の「カルメン」(↓)をクリックしていただくと、YouTubeの動画をご覧いただけます。

カタリナ・ビットの「カルメン」 1988年カルガリー五輪フリー
【曲の構成】
時間:曲名
0.00~:鐘の音、前奏曲の一部?
0.30~:第4幕への間奏曲(アラゴネーズ)
1.40~:ハバネラ 
3.00~:第2幕フィナーレの合唱
3.30~:あんたね、俺だ(ホセが復縁を迫って切々と歌う部分)
3.50~:第1幕への前奏曲

う~ん、こうかな? ちょっと自信のない部分もありますが。特にオープニングの30秒ほどは、音の状態がよくないこともあって、今ひとつ聞き取れませんでした。いきなり鐘が鳴るなど(最後も鐘で終わりますね)、このプログラム用に編曲されている可能性もありますし。いずれにしても、思い違いもあるかもしれないので、もし「ここは違っている」と気づかれた方がいらっしゃいましたら、どうぞご指摘くださいませ。

(追記 ↓この段落、出だしの1行が抜けてました。失礼しましたっ)
カタリナ・ビットのカルメンですが、なんといってもきりっとした男顔の美人だし、女王様っぽい雰囲気もあるから、ぴったり。曲に合わせて自然に滑っているだけで、十分にカルメンらしさが出ていると思います。

最後に倒れるのは、ドン・ホセに殺されて息絶えたところで幕、ということなのでしょうね。最初と最後の鐘は、カルメンの死を暗示する教会の鐘という演出なのかな? オペラで鐘が鳴るのは聴いたことがないですが、フィギュアの演技時間は短いですから、最初と最後に鐘の音を配することによって、全体の構成がピリッと締まっていると思います。

ただ、いかにもカルメンっぽいビットではありますが、映画版「カルメン・オン・アイス」のカルメン役はイマイチでした。この映画の感想は、以前にも書いたことがあり(こちら)、読み返してみると、訂正したい部分もないではないのですが、大筋では今も同じです。

要は、ビットはシングルの選手なので、ドン・ホセやエスカミーリョという相手役を与えられても、技に限りがあって、物足りないんです(相手と密着した滑りができない)。それに、だいぶ音楽がはしょってあるとはいえ、1時間以上の長さはあったので、見ているうちに飽きもきてしまうし。ただまあ、それはビットのせいじゃなくて、企画のせいというべきでしょう。1人で踊っていたほうが、よほど完成度の高いカルメンになっていたと思います。

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(追加リンク)
くわしくはコメント欄をご参照ください。
http://www.youtube.com/watch?v=hXzpO8vjVzs&search=Olympics%201998%20figure
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by noma-igarashi | 2006-07-23 22:49 | フィギュアスケート | Trackback | Comments(11)

引き続き、デュマ・フィス「椿姫」について

e0073856_17293810.jpg小説『椿姫』について、もうちょっと書いてみます。今度は軽め。
昔に比べると、定番の名作がすっかり購入しづらくなりましたけど、『椿姫』はいまだに買い求めやすい1冊のようです。新潮文庫(写真)、岩波文庫から出ており、近所の本屋にも普通に並んでいました。

Amazonで検索してみたら、オペラ「椿姫」のDVDの中でも、ザルツブルグ音楽祭2005年の盤が合わせて紹介してあり、なかなかやるじゃん、と思ってしまいました。先の記事にも書いたように、この盤は原作のイメージにかなり近いと思います。

ついでに、小説の感想も少し見て回ったところ、意外に褒めている人が多くて、「マジに? 名作だといわれていることで、騙されてない?」などと思ってしまいました。私はやはり、発表当時には価値のある小説だったのかもしれないけれど、今となってはわかりづらくて退屈な小説だと思います。

そんな中でびっくりしたのが、「『少年少女世界文学全集』で読んだ」という人がいたのと、「学校の課題図書だった」という人がいたこと。ええええ~~~!? む、無茶するなあ、出版社と文部省(汗)。

『少年少女世界文学全集』は、子供向けに翻案されており、マルグリットの職業は上手にぼかしてあったそうです。まあ、その上でオペラ「椿姫」の路線で悲劇的にまとめてあれば、子供でもけっこう楽しめそうな気はしますね。

「学校の課題図書」のほうは、「学校」というのが小・中・高校のどれだかわからなかったのですが、何も「椿姫」を課題図書にしなくてもなあ…。別に、娼婦が出てくるから不謹慎だとかわけじゃなくて、当時のフランスの社会状況がわからないと、肝心のところが理解できないですよ、絶対。いいトシになって読んだ私も、ホントにわかりませんでした。そういう本を課題図書なんかにするから、読書嫌いが増えてしまうのでは、などと余計なことを心配してしまいました。
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by noma-igarashi | 2006-07-22 17:31 | 映画・TV・本など | Trackback | Comments(0)

ドリーム・オン・アイス情報(今さらですが)

ドリーム・オン・アイスに行ってもいないのに、ドリーム・オン・アイス公式サイトをリンクしたときの記事がyahoo!検索で上位に入ってしまい(「ドリーム・オン・アイス」で検索すると、いまだに5番目に出てきてしまうのでした)、ショーのレポートを期待して来てくださっている方には、ものすごく申し訳ない状況が続いています(汗)。

そこで、せめてもの罪ほろぼしに、私が楽しく読ませていただいたショーのレポートをご紹介してみます。該当記事を直接リンクしましたが、何回かに分けてレポートされている方もいらっしゃるので、ぜひ前後の記事も確認してみてください。

複数の方のレポート読むことで、ショーの内容もよりくわしく想像できますが、やはり、それぞれの方が個別に体験された内容が、特に面白いです(たとえば、コンビニやホテルで思いがけず選手に出会ったとか、一緒に行った友人とこんな会話を交わした、というような)。

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by noma-igarashi | 2006-07-22 00:30 | フィギュアスケート | Trackback | Comments(9)

デュマ・フィス「椿姫」について

なんとなく、あまりウケそうにない話題という気もしますが、オペラの原作について、少しずつ書いてみたいと思います。
e0073856_2018123.jpg上記タイトル(↑)の通り、最初はデュマ・フィス「椿姫」について。今回、改めて読み返してみたところ、小説中のアルマン(アルフレード)とマルグリット(ヴィオレッタ)って、意外にこの「椿姫」(→)のイメージがしっくりきました。

ザルツブルグ音楽祭2005の「椿姫」。「乾杯の歌」のシーンはこちらでどうぞ。

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以前、フランス人に芥川賞と直木賞の違いを聞かれて、往生したことがある。どうやらフランス文学には「純文学」「大衆小説」という区別の仕方がないらしく(というか、そんな区別をしているのは日本だけ?)、「純文学」「大衆小説」という言葉を直訳できないのはもちろん、おぼつかないフランス語を重ねて説明しても、もともとそういう概念がないものだから、なかなか理解してもらえないのである。

結局、十分に説明できないままに帰宅した後、「具体例を出せばよかったのかも」と気がついた。たとえば、「大衆小説はアレクサンドル・デュマのような小説で、純文学はアルベール・カミュのような小説」という具合である。それで本当に通じたかどうかは不明だけれど、おおよその雰囲気はわかってもらえたのでは。

さて、今回、「椿姫」を改めて読んで思ったのは、「大デュマが大衆小説で、小デュマが純文学」という説明でも悪くないな、というもの。デュマ・フィス(小デュマ)は劇作家としても活躍したので、下手に引き合いに出すと話がややこしくなる可能性もあるけれど、ともかくここでいいたいのは、「椿姫」って純文学だなああ…としみじみ感じた、いうこと。純文学も純文学、文芸評論家・斎藤美奈子が著書『妊娠小説』で命名した「僕小説」の19世紀フランス版では。

困ったことに、斎藤美奈子『妊娠小説』がどこかに埋もれて見当たらないため、自分なりの理解で説明を試みると、「僕小説」とはこんな小説である。1980年前後にわが国で人気を博した、主に「僕」を一人称とする私小説(ふうの小説)。僕バージョンの代表が三田誠広『僕って何』、私バージョンの代表が見延典子『もう頬杖はつかない』。ストーリーの特徴としては、主人公の僕(私)は彼女(彼)となんとなく同棲。やがて彼女(私)が妊娠し、中絶。2人の関係も以前とはどこか変わってしまい、別れることに。それを機に、僕(私)は人生について考えるのであった、みたいな内容の小説を指す。

もちろん、「椿姫」のマルグリットは妊娠するわけではない。ご存知のように、代わりに肺を病んで死んでしまうのである。また、マルグリットとアルマンはパリ近郊の田舎家でしばらく同棲するが、それは1980年前後の日本の若者たちの貧乏臭い同棲、つまりどちらかがどちらかのアパートに転がり込むかたちでなんとなく始まる共同生活とはかなり趣きが異なる。さらに、「椿姫」はアルマンの一人称による私小説ではない。アルマンの一人称による語りが大半を占めてはいるものの、基本的には作者デュマ・フィスが、主にアルマンから聞いた話を書き留めた物語という体裁を取っている。

このように、斎藤美奈子が総括したところの「僕小説」の条件を、「椿姫」は根本的なところで満たしていない。それにもかかわらず、私がこの小説を19世紀フランス版の「僕小説」だと受け止めたのは、同時代の人間にしか十分に通じないのではないかと思える、若者臭さのためである。「僕小説」と共通しているのは、まさにその点だ。

そもそも、私はこの記事の冒頭で「椿姫」を“読み返した”と書いたが、最初のときは満足に読んでいない。女子高生が心惹かれるような部分になかなか出会えず、出だしだけ読んで、すぐに投げ出したのである。今回も、最後まで読むには読んだが、ほとんど面白いとは思わなかった。というのも、登場人物の誰に対しても、共感できる点がまったくといっていいほどなかったからである。

愛情ゆえにせよ、愛情ゆえに傷ついた心のためにせよ、アルマンはうだうだと自分勝手なことを言い募るばかり。マルグリットのものの考え方も娼婦としてのそれであり、その行動原理をもっともだとは思うものの、感情移入するのは難しい。田舎家でアルマンと同棲するようになってからは、彼に対して一途な愛情を注ぐようになるが、それはそれで、アルマンのような鬱陶しい(としか私には思えない)男性に思い入れる気持ちがわからない。登場人物の中でかろうじて心境が理解できるのは、息子と別れるようにマルグリットに迫る、アルマンの父親ぐらいのものである。

なぜこんなにも登場人物の気持ちがわからないのか。生きている時代や社会が違うからか。それも確かにあるだろう。しかし、すでに名前を出した作家をまたも例にすれば、アレクサンドル・デュマの小説は21世紀になって読んでもわくわくするし、フランスの歴史や社会状況を知らなくても十分に楽しめる。

そこで考えた末にたどり着いた結論が、大デュマの作品が日本流にいえば大衆小説であるのに対して、小デュマの「椿姫」は純文学であり、しかも「僕小説」なのではないかということである。だいたいが純文学というのは、普遍的な人間の感情を扱っているようにいわれがちだが、実はそうではないのではないか。それが得意なのは、むしろ大衆小説のほうなのではないか。復讐心や忠義、恩返し、苦難の末に成就する愛情など、シンプルな喜怒哀楽の感情は時代を超えて理解しやすい。一方、純文学が好んで描く微細な心情は、普遍的どころか、時代が変わればたちまち理解が難しくなるように思える。

たとえば本家「僕小説」の登場人物たちもそうだ。以前から恋愛関係にあったわけではない相手と、たまたま成り行きで同棲する若者たちの行動や心情は、同時代の人間には通じても、早晩、通じなくなりそうに思える。実際、「僕小説」が一世を風靡してから20年が経った今では、仮に「なぜ彼(彼女)はこんな行動を取ったのか」と聞かれたら、「そういう時代だったから」としか説明のしようがない。

おそらく、「椿姫」もまた、同時代を生きていなければ十分には理解できない類の小説なのだろう。アルマンは、1848年当時の若者にとっては衝撃的であったり、共感を覚えたり、時代を代表するかの感性や価値観を持った存在として受け止められたのに違いない。では、どのような点が同時代の若者たちを惹きつけたのか。愚かしいことに、私はすぐに答えを思いつかなかったのだが、ひとたび気がついてみればあまりにも明白である。普通の女性を愛するように娼婦を愛したこと。それに尽きるだろう。150年後の私にとっては、身勝手で鬱陶しいとしか思えなかったアルマンの言動も、普通の女性と同じように娼婦を愛することのできる人間ゆえの率直さ、あるいは逡巡や葛藤によるものとして、むしろ自然に受け入れられたのではないだろうか。

この流れに沿って理解しなおすと、マルグリットが最初のうち、いかにも娼婦らしいものの考え方をしていたことも、にわかに説得力を発揮する。仮にマルグリットが、娼婦でありながら愛されてもおかしくない資質をもともと持っていたとしたら、この話は純文学としては成立しない。アルマンが娼婦である彼女を愛し、その愛によって、彼女が人間的な感情に目覚めること。それこそが大事なのだ。

小説「椿姫」においては、アルマンもマルグリットも、あくまでも純文学の登場人物である。これが大衆小説ならば、アルマンは最初から迷いもなくマルグリットを愛し、ヒーローのごとく彼女を苦界から救い出そうとすることだろう。マルグリットのほうも、やむを得ぬ事情から娼婦に身を落としているものの、愛によって救われるべき不幸なヒロインとして描かれることだろう。しかし、純文学の登場人物が最初からヒーローやヒロインであっては意味がない。純文学の登場人物は、欠点に満ち、逡巡したり後悔したり、ときには挫折しながら、それでも古い価値観をゆるがすことによって、同時代の圧倒的な共感を得る存在となるのである。

このように理解すれば、150年後を生きる私にも、小説「椿姫」のアルマンという登場人物を何とか受け入れられる。実のところ、この理解に達するまでは、オペラ「カルメン」(小説「カルメン」ではない)のドン・ホセ以上に鬱陶しい男としか思えなかったのである(いや、本音をいえば、今でもやはり敬遠したい存在なのだが)。

最後に、オペラ「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」についても簡単にふれておこう。オペラ「椿姫」は決して純文学ではない。オペラというジャンルの制約から物語を単純化したことによって、大衆小説化に成功している。そのために普遍性を持ち、いまだに人気の高いオペラとして世界中で上演されている。オペラ「椿姫」のアルフレードは、アルマン的な性格をたまに覗かせはするものの、おおむね純愛に生きる好青年である。ヴィオレッタは娼婦でありながらも高貴で、彼女の不幸は見る者の感情移入の対象となる。オペラ化にあたって、アルマンからアルフレードに、マルグリットからヴィオレッタに名前が替えられたように、小説「椿姫」とオペラ「椿姫」の2人は、まったくの別人と考えたほうが戸惑いが少ない。そしてまた、小説「椿姫」は、オペラ「椿姫」の原作となったことによって、同時代性がまったく失われてしまった今も読み継がれているのだろう。

もうひとこと付け加えれば、オペラ「椿姫」は、19世紀ふうの華やかな演出で楽しみたい。現代的な演出の「椿姫」は、原作そのままに純文学ふうに思え、私にとっては正直なところ、相当にうざいのである。
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by noma-igarashi | 2006-07-21 22:52 | 映画・TV・本など | Trackback | Comments(0)

エディット・マティス

久しぶりに「この人がこんな役もあんな役も」の話題です。今回はエディット・マティスを取り上げます。収録時期がほとんど変わらない2枚の「フィガロの結婚」で、一方ではスザンナを、一方ではケルビーノを演じていて、DVDを1枚ずつ見ている分には、べつだん何とも思っていなかったのですが、今回、改めて名前を並べてみて、ちょっと不思議な気持ちがしました(というか、ややこしい…)。

エディット・マティス/Edith Mathis
ソプラノ、1938年スイス生まれ


e0073856_14572547.jpgハンブルク「魔笛」
収録:1971年
指揮:ホルスト・シュタイン
演奏:ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団
タミーノ:ニコライ・ゲッダ
パパゲーノ:ウィリアム・ワークマン
パミーナ:エディット・マティス
夜の女王:クリスティーナ・ドイテコム
ザラストロ:ハンス・ゾーティン



e0073856_021572.jpg最初に「魔笛」から書くことにしました。以前、集中的に「魔笛」の話題を取り上げたときにも書きましたが、エディット・マティスの演じるパミーナ、とても魅力的ですね。きれいで気品があって、見るからに王女にふさわしい。たとえば、このまま「ローマの休日」でアン王女を演じていても、まったく違和感がなさそうな感じ。映画のヘップバーンとは髪型がちょっと違うけど…と思ったら、ふだんはショートヘアなんですね(念のため、写真はこちら)。

この「魔笛」では、夜の女王を演じるドイテコムも女王らしい威厳があり、母娘と見立てるのに納得のいく組み合わせだったりもします(実年齢ではドイテコムのほうが7歳ほど年上というだけのようなので、ちょっと申し訳ないですが)。

といいますか、この「魔笛」の出演者って、揃いも揃って、王族または賢者としての気品や威厳が備わっているような気が…(パパゲーノを除く)。オペラのキャストに現実感を求めすぎるのもどうかとは思いますけど、この「魔笛」のキャストは納得度が高く、なかでもパミーナは適役だと思います。パミーナという役柄は、ただかわいいだけより、しゃんとした感じのする歌手に演じてもらったほうが好きなので、マティスのパミーナは、個人的にかなり得点(?)が高いです。

さて、次に「フィガロの結婚」ですが…。

e0073856_20143871.jpgベルリン・ドイツ・オペラ「フィガロの結婚」 ※CD
収録:1968年
指揮:カール・ベーム
演奏:ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
フィガロ:ヘルマン・プライ
スザンナ:エディット・マティス
アルマヴィーヴァ伯爵:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
伯爵夫人:グンドゥラ・ヤノヴィッツ
ケルビーノ:タティアナ・トロヤノス


e0073856_2015594.jpgどうせ「フィガロの結婚」のエディット・マティスを話題にするのなら、DVDだけではなく、このCD(↑)も加えたほうがいいんでしょうね。私の場合、生来の音楽好きではないので、映像なしでオペラを鑑賞するというのが今ひとつでして、CDの保有枚数はちょっと書けないくらいに少ないんですが、これはジョルジュ(仮名、日本人)が持っていたのを聴きました。余談ながら、ヘルマン・プライのときに話題に出たこの「フィガロの結婚」(→)も、ジョルジュが持っていました。全然知らなかった…。ただしLDなので、実は、配線をつなぎかえないと見られないんですが。

e0073856_1455010.jpgザルツブルグ音楽祭「フィガロの結婚」
収録:1966年、ザルツブルク祝祭劇場小ホール
指揮:カール・ベーム
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
アルマヴィーヴァ伯爵:イングヴァール・ヴィクセル
伯爵夫人:クレア・ワトスン
スザンナ:レリ・グリスト
フィガロ:ヴァルター・ベリー
ケルビーノ:エディット・マティス



e0073856_14535354.jpgハンブルク「フィガロの結婚」
収録:1967年?
指揮:ハンス・シュミット=イッセルシュテット
演奏:ハンブルク・フィルハーモニー国立管弦楽団
アルマヴィーヴァ伯爵:トム・クラウゼ
伯爵夫人:アーリーン・ソーンダーズ
スザンナ:エディット・マティス
フィガロ:ハインツ・ブランケンブルグ
ケルビーノ:エリーザベト・シュタイナー


というわけで、エディット・マティス、ベーム盤のCDではスザンナを演じています。で、その1年前に、ハンブルク盤のDVDでもスザンナを演じているのですが、ベーム盤CDが通常のイタリア語盤であるのに対して、この盤はドイツ語です。さらに、その1年前に収録されたベーム指揮ザルツブルグ音楽祭盤のDVDでは、ソプラノなのにケルビーノ役。ややこし~。

1人の歌手が、同じ役柄(スザンナならばスザンナ)で複数の盤にダブって登場するのはよくある話ですけれど、役柄がスザンナとケルビーノで、スザンナはもともとソプラノの役柄だけどケルビーノは普通メゾソプラノの役柄で、おまけに言語がイタリア語とドイツ語で…。ああ、なんか、頭の中で整理するのが大変です。

ケルビーノをソプラノが歌うのは、よくあることなんでしょうか? なんとなく、若くてきれいだから、ソプラノだけどズボン役をやらせちゃえ、みたいな成り行きを勝手に想像。でも、それだったら、もうちょっと衣装に気を使ってほしいかな。髪型(というか劇中でかつらをかぶっている状態)がイマイチだし、ぶっちゃけ、「うわ~、やっぱりきれいな人が少年役をやると映えるなあ」というふうでもなかったので。

もちろん悪くはなかったですけど、各種DVDを揃えてケルビーノ比較をするとしたら、もっと魅力的なケルビーノがいそうな気がします。2、3日前にTVで見た(で、生でも見ているんですが)キルヒシュラーガーのケルビーノも、物憂い感じがなかなかよかったし。ケルビーノ比較も、そのうちぜひやってみたいものです。

一方、スザンナ役のほうは、もともとソプラノの役柄だし、雰囲気的にも合っていると思います。もう少しおきゃん(死語?)なスザンナも好きなんですが、これはこれで魅力的です。ただ、DVDのほうはドイツ語なので、その点がちょっと…。ドイツ語もイタリア語も、私には理解できない言語ですけど、それでもやはりイタリア語のほうが軽やかに聞こえるから、「フィガロの結婚」はイタリア語じゃなくちゃなあ、と思うのでした。

ちなみに、ハンブルク盤のDVD「フィガロの結婚」は、ケルビーノ以外はビジュアル的にもOK(ケルビーノはかわいいんだけどぽっちゃりタイプで、見るからに女っぽいんです)。値段も安いし、持っていて損はない1枚だと思います。
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by noma-igarashi | 2006-07-18 11:28 | オペラ・音楽 | Trackback | Comments(2)

最近の検索状況(ドリーム・オン・アイスについて追記アリ)

昨日から、「ドリーム・オン・アイス」で検索して来てくださっている方が多いんですが、すみません、私、「ドリーム・オン・アイス」には行っていません。私もほかの方のサイトでレポートを読んで、行った気分を楽しませていただいています。

それと、今月になってから「キエフ・オペラ」で検索して来てくださっている方も多いんですが、「キエフ・オペラ」には行きます。ただ、私が行くのは「トゥーランドット」ではなくて「アイーダ」なんですが。

「トゥーランドット」は、奮発してフィレンツェ歌劇場の来日公演に行きます。しかしながら、チケットを取った時点で配役が未定だったので、フリットリがリューの回ではないんですが。なんだか少しずつ、とほほ…です。

明日から、エディット・マティスのことを少し書いてみようかと思っています。

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(追記)
今日(17日)になってもアクセス数が衰えないので、試しに「ドリーム・オン・アイス」をキーワードにyahoo!で検索してみたところ、なんと、このブログが5番目にヒットしてしまいました(ヒットしたのは公式サイトをリンクした記事)。

ショーを見に行っていない人間のブログが5番目というのは、なんだかちょっと、どうなんでしょう。申し訳ないばかり。

そこで、実際にショーに行かれて、そのようすを記事に書かれている皆さまにお願い。ぜひ記事のタイトル等を「DOI」ではなく「ドリーム・オン・アイス」にしてくださいませ。「DOI」では検索になかなか出てきません。「ドリーム・オン・アイス」にしていただくと、検索を頼りにされている方々が、効率よく観戦記にたどり着けるものと思います。
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by noma-igarashi | 2006-07-17 18:30 | フィギュアスケート | Trackback | Comments(0)

美内すずえ「銀色のデュエット」

わ~い、こんな懐かしいものが見つかりました! 美内すずえ「銀色のデュエット」。別冊マーガレットに掲載されたときの表紙です。
タイトルからすると、オペラ関連というか音楽のマンガのようですが、実はフィギュアスケートの話です。思い出しましたが、これ、兄妹ペアが登場します! (←いったんはこう書いたものの、ちょっと自信がなくなってきました。幼なじみだった可能性も)

(あとでくわしく書きます)

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というわけで、美内すずえ「銀色のデュエット」についてです。公式サイトの情報によると、この作品は花とゆめコミックス「美内すずえ傑作選3 日本列島一万年」に収録されているそうですが、現在は入手困難とのこと。初版が1979年ですからねえ。といいますか、別冊マーガレットに掲載されたのはさらに古く、「日本列島一万年」が1971年、「銀色のデュエット」が1970年なんですが。

「白いトロイカ」ほど古いわけじゃないから、興味のある人は買って読んでもらえばいいなと思ったのですが、それが難しいということなので、どんなお話だったか、頑張って説明を試みてみます。冒頭でリンクした表紙には、こんなふうに書いてありますね。
<勝て、母国のために! そして、愛のために! フィギュアスケートひとすじに生きた少女の感動巨編。>

さらに、あちこち飛び回ったところ、こんな紹介文を掲載しているファンサイトもありました。
<フィギュアスケート選手権のためにシベールとケントは亡命先からユラミスに帰国し、高度な技「デス・スパイラル」を演じようとする。>

そうそう、そんな話でした。だんだん記憶が鮮明になってきました。「兄妹」という言葉はどちらにも出てこないし、「愛のために!」だし、やはり兄妹ではなかったのかな。兄妹ではないというセンで、これらの紹介文を補っていきます。

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上記のように、この作品の主人公はシベール(♀)とケント(♂)。2人は幼い頃、ユラミスという国からアメリカ(みたいな国)へ亡命します。ユラミスは、ナチス・ドイツ(みたいな国)に侵攻され、併合されたヨーロッパの小国、という感じです。実際、ヒトラーのような総統もちょっとだけ登場します。

亡命先の国で、2人はよそ者として、いじめられたり仲間はずれにされたりしますが、そんな2人を支えたのがフィギュアスケートでした。2人はペアを組み、しだいに上達していきます。そして、ついにフィギュアスケート選手権に出場できることになったのですが、その開催地は、なんと母国ユラミス。亡命した2人が母国に帰るのは、大きな危険を伴います。しかし、2人はどうしても出場し、その試合で優勝して、ナチス・ドイツ(みたいな国)の軍事政権下で苦しむ母国の人たちを勇気づけたいと願いました。

とはいえ、危険をおかして出場したとしても、そう簡単に優勝はできません。そこで、シベールは「デス・スパイラル」という高度な技に挑戦することにしました。この技を演技に組み込めれば、優勝も夢ではありません(この「デス・スパイラル」については後述します。ひとまず、あなたのよく知っているデス・スパイラルとは別物だと思っておいてくださいませ)。

練習に練習を重ね、シベールはデス・スパイラルを滑るのに成功します。そして、2人はいよいよ試合のためにユラミスへと向かうのでした。亡命者である2人が試合のために帰国するかもしれないことは、ナチス(みたいな政府)側にも知られており、2人が入国したら身柄を拘束しようと、警戒を強めていました。ユラミスに入国するために、2人は偽名を使って兄妹を装いますが(←たぶん、これで記憶が混乱したのです)、荷物の中のスケート靴が見つかり、正体がばれてしまいます。空港から逃げ出す2人。なんとか逃げのびて試合会場にたどり着きますが、リンクに出たら、たとえ演技はできても、終了後に逮捕されてしまうに違いありません。

それでも滑ることを決意し、2人はリンクに出て行きます。ところが、政府側に妨害され、演技のための音楽が流れません。音楽なしでは演技ができない! 2人はとっさの判断で、かつてユラミスの国歌だった歌を歌いながら演技を始めます。会場に湧き起こるざわめき。ナチス・ドイツ(みたいな国)に併合されて以来、かつての国歌が歌われる機会は失われていたし、歌おうものなら逮捕されかねないような状態でした。しかし、2人の歌う国歌に励まされ、会場の人たちは1人、また1人と、一緒に歌い出します。やがて、会場全体が歌声に包まれる中、シベールはデス・スパイラルに成功。大きな拍手のうちに演技を終えました。

最終的に2人が優勝したかどうかは、実はよく覚えていません。たぶん優勝したのだと思いますが、ユラミスの人たちを勇気づけるという目的は果たしたわけだから(そして、読者としては、会場が一体となった時点ですでに一種のカタルシスを得ているわけだから)、試合の結果はさして重要ではないように思います。

試合後、憲兵たちが2人を逮捕しようとします。しかし、2人の演技と勇気ある行動に心を動かされたヒトラー(のような総統)が、2人を見逃してくれるのでした。(おしまい)

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美内すずえらしい、ストーリー性の高い作品だったと思います。「演技しながら歌えるのか」とか、「急に曲を変更したら、演技内容に支障が出るのでは」とかという類のツッコミは、まあ置いといてもいいのでは。

さて、ここで問題の「デス・スパイラル」についてです。デス・スパイラルというのは普通、こちらの動画のような技を指しますよね。しかしながら、美内作品におけるデス・スパイラルは違っていました。では、どんな技だったかというと、ペアでありながら1人で行う技で、「通常のスパイラルとは逆の姿勢で行うスパイラル」というような説明がされていたと思います。

逆の姿勢とは? つまり、通常のスパイラルというと、基本的にはこんな感じの姿勢ですよね。これの逆なんです。今回、スパイラルについて調べていたら、「通常のスパイラルは、お腹が下。デス・スパイラルは、背中が下」と説明されているサイトもありましたが、まさにその説明の通り。

美内作品のデス・スパイラルは、背中を下(お腹を上)にして片足を上げ、そのままの姿勢を保って滑るという技でした。ビジュアル的には、上記でご紹介した動画のデス・スパイラルで女性が取っている姿勢を、男性の補助なしに取り、スパイラルのように氷上を進んでいく、というもの。あまりきれいだとは思わないですけど、バランスを取るのが難しそうで、「高度な技」だという説明は子供心にたいへん納得できました。

では、なぜ美内すずえは、本来の(私たちがよく知っている)デス・スパイラルとは違うものをデス・スパイラルとして描いたのか? 美内すずえは、ちゃんと調べずに適当なことを描くというタイプの作家ではないと思うんです。そこで、次のように推測してみました。といっても、私はフィギュアスケートの技の歴史にくわしいわけではないので、もしかしたら見当違い(あるいは逆に言わずもがな)のことかもしれないんですが…。

私の推測はこうです。この作品が発表された1970年(札幌オリンピックの2年前)当時、今の私たちがよく知っているペアのデス・スパイラルという技は、まだ存在しなかったのではないでしょうか。代わりに、美内すずえが描いたような技がデス・スパイラルと呼ばれ、概念としては存在するものの、難しすぎて実際にやれる人はほとんどいない、という状態にあったのでは。

ところが、あるとき(想像としては70年代半ば)誰かが、「ペアの男性が補助してやれば、デス・スパイラルは簡単にできるじゃないか」ということに気がついたわけですよ。でも、仰向けの体勢で、パートナーに引っ張られて氷上を進むというだけでは、技として今ひとつ面白くない。それで、男性の周囲をぐるぐる回す、という今のようなかたちになったのでは。

このように考えると、「スパイラル」と「デス・スパイラル」の関係もすっきりするように思えます。だって、腰より高く足を上げて氷上を滑っていく技が「スパイラル」であるのに対して(螺旋状に滑っていく、という意味でしょうかね?)、ちっともスパイラルと似たところのない、女性をぐるぐる回す技が「デス・スパイラル」と呼ばれているのは、どうも統一性に欠けるように思うんです。上記のような推移があったのだと考えれば、納得しやすいのですが、どうでしょう?

もしも技の歴史にくわしい方がご覧になっていたら、ぜひぜひご教示いただきたいです。真相はいかに?
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e0073856_16323045.jpg(おまけ)
「銀色のデュエット」が掲載された別冊マーガレットの表紙です。1970年1月号。「銀色のデュエット」は、右側に4つ並んだ絵のうちのいちばん上ですね。
(←これね、これ)

おっと、左側には「アタックNo.1」が…。どうやらテレビで放映していた時期で、関連記事が掲載されていたようです。
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by noma-igarashi | 2006-07-16 16:38 | フィギュアスケート | Trackback | Comments(0)


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