111.31KV620日記


オペラ、フィギュアを中心に、そのとき興味のあることがらを話題にしています。
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デュマ・フィス「椿姫」について

なんとなく、あまりウケそうにない話題という気もしますが、オペラの原作について、少しずつ書いてみたいと思います。
e0073856_2018123.jpg上記タイトル(↑)の通り、最初はデュマ・フィス「椿姫」について。今回、改めて読み返してみたところ、小説中のアルマン(アルフレード)とマルグリット(ヴィオレッタ)って、意外にこの「椿姫」(→)のイメージがしっくりきました。

ザルツブルグ音楽祭2005の「椿姫」。「乾杯の歌」のシーンはこちらでどうぞ。

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以前、フランス人に芥川賞と直木賞の違いを聞かれて、往生したことがある。どうやらフランス文学には「純文学」「大衆小説」という区別の仕方がないらしく(というか、そんな区別をしているのは日本だけ?)、「純文学」「大衆小説」という言葉を直訳できないのはもちろん、おぼつかないフランス語を重ねて説明しても、もともとそういう概念がないものだから、なかなか理解してもらえないのである。

結局、十分に説明できないままに帰宅した後、「具体例を出せばよかったのかも」と気がついた。たとえば、「大衆小説はアレクサンドル・デュマのような小説で、純文学はアルベール・カミュのような小説」という具合である。それで本当に通じたかどうかは不明だけれど、おおよその雰囲気はわかってもらえたのでは。

さて、今回、「椿姫」を改めて読んで思ったのは、「大デュマが大衆小説で、小デュマが純文学」という説明でも悪くないな、というもの。デュマ・フィス(小デュマ)は劇作家としても活躍したので、下手に引き合いに出すと話がややこしくなる可能性もあるけれど、ともかくここでいいたいのは、「椿姫」って純文学だなああ…としみじみ感じた、いうこと。純文学も純文学、文芸評論家・斎藤美奈子が著書『妊娠小説』で命名した「僕小説」の19世紀フランス版では。

困ったことに、斎藤美奈子『妊娠小説』がどこかに埋もれて見当たらないため、自分なりの理解で説明を試みると、「僕小説」とはこんな小説である。1980年前後にわが国で人気を博した、主に「僕」を一人称とする私小説(ふうの小説)。僕バージョンの代表が三田誠広『僕って何』、私バージョンの代表が見延典子『もう頬杖はつかない』。ストーリーの特徴としては、主人公の僕(私)は彼女(彼)となんとなく同棲。やがて彼女(私)が妊娠し、中絶。2人の関係も以前とはどこか変わってしまい、別れることに。それを機に、僕(私)は人生について考えるのであった、みたいな内容の小説を指す。

もちろん、「椿姫」のマルグリットは妊娠するわけではない。ご存知のように、代わりに肺を病んで死んでしまうのである。また、マルグリットとアルマンはパリ近郊の田舎家でしばらく同棲するが、それは1980年前後の日本の若者たちの貧乏臭い同棲、つまりどちらかがどちらかのアパートに転がり込むかたちでなんとなく始まる共同生活とはかなり趣きが異なる。さらに、「椿姫」はアルマンの一人称による私小説ではない。アルマンの一人称による語りが大半を占めてはいるものの、基本的には作者デュマ・フィスが、主にアルマンから聞いた話を書き留めた物語という体裁を取っている。

このように、斎藤美奈子が総括したところの「僕小説」の条件を、「椿姫」は根本的なところで満たしていない。それにもかかわらず、私がこの小説を19世紀フランス版の「僕小説」だと受け止めたのは、同時代の人間にしか十分に通じないのではないかと思える、若者臭さのためである。「僕小説」と共通しているのは、まさにその点だ。

そもそも、私はこの記事の冒頭で「椿姫」を“読み返した”と書いたが、最初のときは満足に読んでいない。女子高生が心惹かれるような部分になかなか出会えず、出だしだけ読んで、すぐに投げ出したのである。今回も、最後まで読むには読んだが、ほとんど面白いとは思わなかった。というのも、登場人物の誰に対しても、共感できる点がまったくといっていいほどなかったからである。

愛情ゆえにせよ、愛情ゆえに傷ついた心のためにせよ、アルマンはうだうだと自分勝手なことを言い募るばかり。マルグリットのものの考え方も娼婦としてのそれであり、その行動原理をもっともだとは思うものの、感情移入するのは難しい。田舎家でアルマンと同棲するようになってからは、彼に対して一途な愛情を注ぐようになるが、それはそれで、アルマンのような鬱陶しい(としか私には思えない)男性に思い入れる気持ちがわからない。登場人物の中でかろうじて心境が理解できるのは、息子と別れるようにマルグリットに迫る、アルマンの父親ぐらいのものである。

なぜこんなにも登場人物の気持ちがわからないのか。生きている時代や社会が違うからか。それも確かにあるだろう。しかし、すでに名前を出した作家をまたも例にすれば、アレクサンドル・デュマの小説は21世紀になって読んでもわくわくするし、フランスの歴史や社会状況を知らなくても十分に楽しめる。

そこで考えた末にたどり着いた結論が、大デュマの作品が日本流にいえば大衆小説であるのに対して、小デュマの「椿姫」は純文学であり、しかも「僕小説」なのではないかということである。だいたいが純文学というのは、普遍的な人間の感情を扱っているようにいわれがちだが、実はそうではないのではないか。それが得意なのは、むしろ大衆小説のほうなのではないか。復讐心や忠義、恩返し、苦難の末に成就する愛情など、シンプルな喜怒哀楽の感情は時代を超えて理解しやすい。一方、純文学が好んで描く微細な心情は、普遍的どころか、時代が変わればたちまち理解が難しくなるように思える。

たとえば本家「僕小説」の登場人物たちもそうだ。以前から恋愛関係にあったわけではない相手と、たまたま成り行きで同棲する若者たちの行動や心情は、同時代の人間には通じても、早晩、通じなくなりそうに思える。実際、「僕小説」が一世を風靡してから20年が経った今では、仮に「なぜ彼(彼女)はこんな行動を取ったのか」と聞かれたら、「そういう時代だったから」としか説明のしようがない。

おそらく、「椿姫」もまた、同時代を生きていなければ十分には理解できない類の小説なのだろう。アルマンは、1848年当時の若者にとっては衝撃的であったり、共感を覚えたり、時代を代表するかの感性や価値観を持った存在として受け止められたのに違いない。では、どのような点が同時代の若者たちを惹きつけたのか。愚かしいことに、私はすぐに答えを思いつかなかったのだが、ひとたび気がついてみればあまりにも明白である。普通の女性を愛するように娼婦を愛したこと。それに尽きるだろう。150年後の私にとっては、身勝手で鬱陶しいとしか思えなかったアルマンの言動も、普通の女性と同じように娼婦を愛することのできる人間ゆえの率直さ、あるいは逡巡や葛藤によるものとして、むしろ自然に受け入れられたのではないだろうか。

この流れに沿って理解しなおすと、マルグリットが最初のうち、いかにも娼婦らしいものの考え方をしていたことも、にわかに説得力を発揮する。仮にマルグリットが、娼婦でありながら愛されてもおかしくない資質をもともと持っていたとしたら、この話は純文学としては成立しない。アルマンが娼婦である彼女を愛し、その愛によって、彼女が人間的な感情に目覚めること。それこそが大事なのだ。

小説「椿姫」においては、アルマンもマルグリットも、あくまでも純文学の登場人物である。これが大衆小説ならば、アルマンは最初から迷いもなくマルグリットを愛し、ヒーローのごとく彼女を苦界から救い出そうとすることだろう。マルグリットのほうも、やむを得ぬ事情から娼婦に身を落としているものの、愛によって救われるべき不幸なヒロインとして描かれることだろう。しかし、純文学の登場人物が最初からヒーローやヒロインであっては意味がない。純文学の登場人物は、欠点に満ち、逡巡したり後悔したり、ときには挫折しながら、それでも古い価値観をゆるがすことによって、同時代の圧倒的な共感を得る存在となるのである。

このように理解すれば、150年後を生きる私にも、小説「椿姫」のアルマンという登場人物を何とか受け入れられる。実のところ、この理解に達するまでは、オペラ「カルメン」(小説「カルメン」ではない)のドン・ホセ以上に鬱陶しい男としか思えなかったのである(いや、本音をいえば、今でもやはり敬遠したい存在なのだが)。

最後に、オペラ「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」についても簡単にふれておこう。オペラ「椿姫」は決して純文学ではない。オペラというジャンルの制約から物語を単純化したことによって、大衆小説化に成功している。そのために普遍性を持ち、いまだに人気の高いオペラとして世界中で上演されている。オペラ「椿姫」のアルフレードは、アルマン的な性格をたまに覗かせはするものの、おおむね純愛に生きる好青年である。ヴィオレッタは娼婦でありながらも高貴で、彼女の不幸は見る者の感情移入の対象となる。オペラ化にあたって、アルマンからアルフレードに、マルグリットからヴィオレッタに名前が替えられたように、小説「椿姫」とオペラ「椿姫」の2人は、まったくの別人と考えたほうが戸惑いが少ない。そしてまた、小説「椿姫」は、オペラ「椿姫」の原作となったことによって、同時代性がまったく失われてしまった今も読み継がれているのだろう。

もうひとこと付け加えれば、オペラ「椿姫」は、19世紀ふうの華やかな演出で楽しみたい。現代的な演出の「椿姫」は、原作そのままに純文学ふうに思え、私にとっては正直なところ、相当にうざいのである。
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by noma-igarashi | 2006-07-21 22:52 | 映画・TV・本など | Trackback | Comments(0)
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